瀧澤牧場の隣からは立入り禁止
震災から10日目、枝野幸男官房長官が記者会見で、「茨城県産のホウレンソウと福島県産の原乳から、厚生労働省が定めた暫定基準値を上回る放射能を検出した」と発表。検出された食品は食品衛生法に基づき出荷が停止された。枝野官房長官は「直ちに健康に影響する数値ではない」として冷静な対応を求めたが、多くの国民が「これは、ただごとではない」と実感したのではないだろうか。しかし、この時点で農家や酪農家の長い苦しみが始まることを想像できた国民もそう多くはなかったろう。

逃げられない


体調もよくなったと話す瀧澤さん
福島第1原発から約21キロ。南相馬市原町地区で酪農を営む瀧澤昇司さん一家でさえ、この日まではことの重大性を飲み込めないでいたという。南相馬市の一部を含む原発から半径20キロから30キロまでの地域は、屋内退避や自主避難という曖昧な政府の指示で住民は翻弄された。しかも、モニタリングもなく原乳が出荷を制限される。当時、子どもたちを避難させて、自分は牛と共にこの地に留まった瀧澤さんは、「国の言うことも学者の言うことも信用できなかった。自分で勉強する以外になかった。そして、闘わなかったら何もできなかった」と話す。「政府から逃げろとも牛をどうしろとも言われなかった。おかしいべ」。

循環できない


EM活性液を飲ませる

バンクリーナー(ふん尿溝)にもEM活性液。ハエがいない

たい肥置き場にEM活性液を流す。ニオイが少ない

EM牛ふん堆肥を入れた牧草地
瀧澤さんの飼っている乳牛は36頭。震災前は月に700kgから800kgの搾乳量があった。えん麦やイタリアンライグラスなどの牧草を自家生産し、その畑には牛のふん尿を原料にしたたい肥を使う理想的な循環型酪農を行っていた。外から買う物は、とうもろこしの濃厚飼料だけ。しかし、震災からこの理想は一変する。事故発生の数日後から、乳業工場や飼料工場は地震で閉鎖。ガソリン不足で、原乳を回収する集乳車や燃料の販売車は立ち入らなくなった。その後、福島県内で生産された原乳から放射性ヨウ素が検出され、3月21日には、福島県全域で原乳の出荷制限が指示された。しかし、県は、30キロ圏内だからか、モニタリングさえもしない。もちろん汚染したものは一切出したくない。しかし検査もしないでダメだというのは納得できなかった。

「自分の原乳は、いったいどのくらいのヨウ素やセシウムが出ているのか?本当に出荷できないのか」――瀧澤さんは知りたかった。どうにもできずにいた時に知り合いの大阪の会社から、測定費用の支援の話が来た。測ってみると、1回目の4月6日には、やはりヨウ素もセシウムも出ていた。2回目、4月26日には出なかった。「やらないことにはわからない」ということを知り、県にモニタリングをして欲しいと闘った。その後、屋内退避区域から緊急時避難準備区域へと移行したことで、5月中旬に、南相馬市の原乳の放射性物質モニタリングが実施されることになった。その結果、6月10日から原乳の出荷が再開した。3月14日から6月6日までの約3か月間、瀧澤さんは、毎日牛乳を搾っては、それを畑に捨てることを繰り返した。朝夕2回だった搾乳を1回にしたため、牛は衰弱。断腸の思いで14頭の牛を処分せざるをえなかった。

EMを使う

出荷停止が解除になり、ホッとしたのも束の間。肝心要の牧草が放射能で汚染されていたのだ。牧草を作っていた畑の土壌を検査した結果は5000〜6500Bq/kg。当時の牧草の基準値は、ヨウ素で1kg当たり70Bq、セシウムで300Bq。仕方がないので、輸入の牧草を購入した。採算が合わなくなるのは当然だが、食べさせなければ牛は死んでしまう。

羽根田さんもEMで無農薬米を作付けした
先行きに暗澹たる思いの時に、オーストラリアから牧草が届けられた。実際には20日ぐらい生き延びるだけの量だったが、ありがたかった。放射能除染も独力で始めたころ、救いの手が思いもかけないところから現れた。瀧澤家の裏に住む「馬場EM研究会」の羽根田薫さん(馬場地区区長)が仲間10人とEMによる地域の除染活動に立ち上がっていた。300世帯約1000人が暮らす馬場地区には、高齢者がグランドゴルフを楽しむ「馬場ふれあい広場」があり、ここに放射線のモニタリングポストが設置された。線量は、1μSv/hを超えていたので、百倍利器1基で1次培養、1トンタンク4基で2次培養をする体制をつくり、軽トラックに300Lタンクを載せて散布していたのだ。この羽根田さんの口利きで、瀧澤さんはEM研究機構の試験協力農家になる。2012年5月のことだった。

実証実験始まる

まず、EMボカシ、EM・1などのEM資材を与えた1頭の牛に、除染した牧草地で刈り取った放射性セシウムを若干含む牧草を与え、どの程度牛乳に影響がでるか計測することとなった。その結果、牛乳の放射線物質は、出荷できる水準であることが分かった。※外部リンク

EM研究機構の西渕さんと
今では自家産の牧草を使っても牛乳の放射性セシウムは3Bq以下、最近では1.5Bqという極めて低濃度まで下がってきた。一時、月に400kgまで減少した搾乳量は震災前の水準に戻ってきている。牛の健康状態も良好だ。たい肥置き場のニオイやハエも激減した。牛の尿はEM液肥として牧草地に戻すが、散布する時のニオイが減少している。羽根田さんも「以前よりも気にならなくなった」と証言している。牛ふんたい肥のニオイに肩身の狭い思いをしていたストレスが消えた。今後は、これらのEM堆肥や液肥を戻した土壌中の放射性物質の低減と、牧草への移行抑制効果の確認が期待されている。

震災以降、出荷制限や自給飼料の使用禁止等、苦労は絶えなかった瀧澤さんだが、「前向きに頑張らなくてはならないと思う一心で酪農を続けてきた」と言う。この瀧澤さん一家については、NHKニュースウオッチ9の震災ドキュメント2012で「父と子の夢〜原発事故に向き合った1年〜」として放映された。息子の一生くんは、疎開先の郡山市の中学を今年卒業し、地元・南相馬市の高校に入学した。EMを使い始めてから1年が過ぎた2013年6月末、瀧澤さんは比嘉照夫教授と共に南相馬市を訪れ、EMによる放射能汚染対策の経過と可能性について桜井南相馬市長に報告した。その足で瀧澤さん宅を訪れた比嘉教授は、放射能汚染という最大のピンチをEMで切り抜けていこうと奮起するお父さんを称え、父の跡を継ぐという一生くんを大いに勇気づけた。瀧澤さんや羽根田さんが暮らす地区は、現在避難を勧める「特定避難勧奨地点」に指定されている。見えない放射能との闘いはこれからも続くだろうが、それでも牛と共に生きる覚悟を決めた瀧澤さん一家。この春、瀧澤牧場に太陽光パネルがやってきた。家族会議で、もう原発に頼らないで暮らせるように牛舎の屋根に太陽光パネルの設置を決めたのだ。太陽とEMは、瀧澤家の未来を守ってくれるに違いない。(小野田)

2013年7月23日

参考記事

「米をつくる 地域をつくる」
EM技術で放射能の影響を限りなく少なくし 地域再生の原動力になっている人々
1.『循環農業再開 自分でつくった米は最高だ』 南相馬市・瀧澤昇司さん (2017年1月31日)


外部リンク

■EM技術を活用した乳牛の放射性物質体外排出促進試験について
http://dndi.jp/19-higa/higa_60.php



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